文部科学省委託事業|地域×生徒×農業 — 専修学校を核とし相互課題を解決するネットワークの構築

【農業教育】篤農家さんによる就農経験についての講演(10/24)

甲英では主に、それぞれのキャリアについて考えはじめる2年生のときに”校外のプロ”と交流する機会を増やしていこうと考えています。農業実習もその一環で、”農業のプロ”のじっさいの仕事を体験することで働くことについて気付きを得てもらいたいと考えてのことです。
この日は、農業教育分科会でお世話になっている篤農家の中野耕太郎さんのぶどう農園にいって、「堆肥を収穫が終わったぶどう農園にネコ車で運んで撒く」という農作業の実習をさせていただく予定でした。
しかし、雨が降り続いて畑がぬかるんでしまい、大人数でネコ車を使った作業をすると、子供たちが泥だらけになってしまったり畑が荒れてしまったりするおそれがでてきてしまいました。そのため、急遽前日の打ち合わせで中野さんの就農経験について講演をしていただくことになりました。

中野さんは岡山で25歳のときに脱サラをしてぶどう園の経営をはじめました。そこからいちど農業を離れ、いまは猪名川でぶどうと野菜を作っています。なぜ農家になったのか、農家になるには何が必要なのか。そんなことを中野さんの話から知ってもらえればと思います。

中野さんは1968年、兵庫県の神崎郡生まれです。自然の中で遊んで育った中野さんは、高校卒業時に将来の進路について大きな決断をします。安定した仕事をするための専門学校への進学と、音楽で生きていきたいという夢を天秤にかけました。入学金の支払いの直前に専門学校入学を捨てた中野さんは、高校の間のバイトの貯金とバッグ一つで大阪に出ることを決心しました。人生は一回限り。だから自分の人生を生きたい。
ボロアパートでフリーター(当時そんな言葉はありませんでしたが)をしながらミュージシャンを目指します。その間さまざまなアルバイトでいろんな立場のオトナの話を聞けたことが財産になったと言います。
しかし、3年くらいで音楽の夢を断念、そのときの恋人(現在の奥様)の故郷である倉敷に移住しました。22歳のときの話です。そこで仕事をしながら、どこか田舎暮らしをできるところを探そうと思っていました。
ガソリンスタンドに就職して仕事をしました。声を出したり動いたりは好きでしたが、売上の数字の話が性分に合わないと思っていました。働き詰めの中、月に2回くらいの休みにはバイクで山のほうに行って田舎暮らしができる土地を探しました。しかし、”田舎暮らし”といっても、田舎には仕事があまりありません。なかなか自分にフィットする仕事がないなと思っていた矢先、バイクを運転しているときに、岡山県が運営している「農林業実践学習の里」の看板が目に入りました。そこにいってみると、茅葺き屋根の古民家が事務所になっていて、いろいろな作物が育てられていて、鶏が飼われていて…まさしく理想の風景でした。県の指導員の話を聞いているうちに農業への思いが強くなりました。「ぶどうは春に芽が出て収穫が秋・冬はゆっくり過ごせる」多趣味な中野さんは、「半年遊んで暮らせる」ぶどう農家に興味を持ちました。就農を決意したのは23歳のときのことです。

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県の農業普及員に農地探しを依頼しましたが、なかなか見つかりませんでした。新規就農者など珍しい時代だったからです。そんな折り、2年かかってやっと「土地が見つかった」という連絡を受けました。しかし、見つけてもらった土地を見に行って呆然。そこはキャンベル(ぶどうの品種)を作っていた20年の放棄地60アール(学校の農地の6倍)。古い朽ちたぶどう棚が残り、多くの雑草に覆われた、農地というよりまさしく荒地でした。


しかし、2年たってやっと見つけた土地ですから、そこで荒地を開墾してぶどう園を開園することを決意し、650万円でその土地を取得しました。業者に荒造成してもらった土地で石拾いをする毎日、軽トラ100台ぶんくらいの石を手作業で出しました。

そこからぶどう棚を完成させました。早朝に起きてぶどう園の整備、朝から夕方までJAに勤務して生活費を稼いで夕方からまたぶどう園の整備、そして夜には安く入手した建築途中の家を自分で造作していました。工事費を浮かせるためにとにかく自分でなんでもやりました。その「なんでもやる」経験は、必ず自分の栄養になり、あとで活きてくる、生活費がなくなるとゲームオーバーなのでとにかく働くしかないと中野さんは言います。県の農地改良普及センターやJAに、補助金や資金のことを相談したり、栽培技術の指導を受けたりしました。

ぶどうは、園を開園してすぐに収穫できませんから、しばらくはいっさいの農業収入はありません。ひたすら働いているのに農業から収入がないあいだは不安じゃなかったかという質問に、中野さんは「不安を感じる間もないほど働いた」とおっしゃいました。ぶどうができはじめたのが3年目、ぶどう園がだいたい成木になったのが5年目でした。ぶどうを売るために新興住宅地にポスティングしてぶどうを売るようになりました。注文を受けた家からすぐに電話がかかってきて「いままで食べたことがないおいしいぶどうだ。また持ってきてほしい」と言われたとき、これまでの苦労はこのためだったんだと思いました。それからもお客さんを幸せにするためにぶどうをやっていこうと思いました。ぶどうを売り出してから5~6年、やっとぶどうで食べていけるようになりました。

農業をはじめた中野さんには3つの目標がありました。
目標1;サラリーマンの年収500万を農業で超えたい(“農業は儲からない”に反論したい)
目標2;冬は悠々自適で暮らせるようになりたい
目標3;県で3人の「矢野賞」をとりたい

栄誉ある矢野賞も受賞して順調だった中野さんの農業ですが、過労がたたって、体調をくずすようになりました。そして、15年で無念のリタイヤ。園を後継者に譲って再び大阪に出てきました。そこで、就農希望者をサポートする教育事業を立ち上げたあと、体力が戻ってきたのでもういちど農業をやりたいと思い、農地を再び探し出しました。そして、猪名川町で農業を再開しました。44歳のときのことです。
猪名川で中野さんは、再びぶどうと野菜の農家をはじめました。いまも農家の傍ら、甲英以外にも子供に農業を教えたりしています。

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中野さんは講演に「自分らしく生きる選択」というタイトルを付けていました。甲英のみんなには、自分らしく生きてほしい、と。
自分で判断をするいぜんに、親や先生の言うことや周りの多くの考えや社会通念などに束縛されて、自分らしい選択をできずにいる人がたくさんいます。自分でした決断や選択のためなら一所懸命になれるし諦めもつけられる、それこそが自由でしあわせなことなのだということこそが、”キャリアを考えはじめる”高校2年生が、いちばん考えの根底に持っておくべきものかもしれません。